LAN一式を買った。NetWareというものだ。絶対にお買い得だと言われて、管理者のサポート付きで購入した。しかし、何に使っていいかわからなかった。 売り込みに来たのは織田ゆかりさん。小田急線の百合が丘に住んでいたから、織田ゆかりと名乗っていた。彼女の居た会社が解散することになり、本社から、機材や家具を売って、最後の給料に当てるようにと指示が来たということ。社員が皆で、パソコンや机を売り歩いていた。 その頃、私の会社には、私と社員一人が居た。会社は、あるビルの3階の一室。いくつかの会社と一つの部屋をシェアしていた。オフィスの入り口近くには、4つか5つの会社名がプリントして張り出してあった。どのプリントも、拡大コピーを何度も繰り返したので、ドットがギザギザになった文字であった。香港の九龍ビルのようだと言われていた。 ビルの1階は、マシーンと配線の倉庫のように見えた。ガラス張りの1階は、地下鉄「国会議事堂前」駅を利用する通勤客の好奇の目が覗き込み、「このオフィス、まだ片付かないみたいね」と言う声が良くきかれた。片付くわけがない。ますます機材が増えて行ったのだから。これが今では、インターネット業界でトップを走っている某I社である。 2階には、日本の長期政権を倒した某政党が引っ越してきていた。いつも政治家を追いかけている古くからの友人で、写真週刊誌のカメラマンが、うちのオフィスへ機材を置いて、張り込みにきていた(その後、自分が危うくフォーカスされそうになるとは思わなかった)。実は、この政党を作った影の立役者も、古くからの知人なのだが、このオフィスでは一度も会わなかった。 織田ゆかりさんは、これからはネットワークの時代だと力説した。サーバからソフトウェアのライセンス、さらにコンピュータラックまで付けて10万円だと言った。たった一人居た社員は、絶対にネットワークは嫌だと言って抵抗していた。以前の仕事で、ネットワークで散々苦労をしたので、新しいことには手を出したくないという頑固さを身につけてしまっていた。織田ゆかりさんが、ネットワークの管理もしてくれると言う。 可愛い女性管理者のサポート付なら、LANも悪くない。かくて、サーバ1台(2台だったかな)、クライアント1台、利用者1人というLANシステムが構築された。 ダイヤルアップではあるが、インターネット接続の契約も、民間プロバイダがサービスを開始した時には申し込んでいた。1階に、日本最初のインターネットプロバイダがあって、電話は内線で接続できたから、申込みは簡単。しかも、その伝票処理のソフトを私達で作っていた(私達への請求書だけは削除するような仕組みでも作っておけば良かった)。しかし、インターネットだのメールだのの仕組みがわからなかったから、契約しても1年間ほどは使ったこともなかった。管理者に尋ねると必ず「通信レイヤーには7層あって・・・」という難解な講義が始まる。 サーバは時々、ファイルのバックアップに使っていたが、インターネットは、WEBで大人のページが見られることを知るまでは使おうとも思わなかった。それまでのパソコン通信と、インターネットメールの違いすらわからなかったのだ。 通信レイヤーの講義を聞こうともしなかったオジサンが、いつのまにかインターネットのコンサルタントになったと、織田ゆかりさんに笑われることがある。少しはオジサンだって成長するものだ。 このお話しは、管理者となった織田ゆかりさんが、奮闘記を「LANTIMES」という雑誌に書いている。「にわか管理者ひや汗日記」(織田ゆかり著)として1994年9月から1995年8月まで連載された(バックナンバーが、どこでみつかるかは知らない)。95年12月号には番外編も載っている。 たった一人のLANが、その後、どうなったかは、「にわか管理者ひや汗日記」を読んでみて下さい。その方が、オジサンのよた話よりもずっと面白いでしょう。
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