(*)ホームページの掲示板を見ていたら、最近、アメリカが話題になっていた。ふと、初めてのアメリカを思い出してしまった。 初めてアメリカへ行ったのは、相当な年齢になってからだ。それでも、もう10年経ってしまった。でも、他の人達よりは、ずっとずっと遅かったと思う。アメリカが恐かったからだ。英語で議論するなんて、冗談じゃないと思っていた。高校の時に、「君の英語の成績では、この大学に合格するのは難しいですよ」と言われて以来のコンプレックスである。教師の言葉というのは、子供に大きな影響を与えると思う。小学校の時に、音痴と言われて以来、音楽が嫌いになり、中学校の時に、「この風景画は、おとぎ噺の世界か」と言われて、絵を描くのが嫌になった。 ジャカルタでの仕事を止めて、次は何をしようかと、ぼんやり考えていた頃だ。その頃は、いわゆるファームウェアと呼ばれるボードの設計をやっていた。ほとんど動かないロボットを作ってしまって、毎日、クレームの嵐の中で頭を下げてまわっていた時もある。今でも、悪くない評価をされている機械もあるけど、誰が設計したかは話してはいけない契約になっている(下請け外人部隊ですからね)。 電話がかかってきた。「月曜日の朝8時にシカゴの○○ホテルのロビーまで来てくれないか」。残念ながらホテルの名前を、もう忘れてしまっている。先輩だったし、時間の余裕も多少あったから、「いいですよ」と答えてしまった。そしたら、すぐに電話は切れた。 何の話しか分からない。考え込んでしまった。詳細を聞くために、先輩の会社へ折り返し電話を入れた。秘書の女性が可愛い声で、「今、海外出張中で、滞在先がわからないんです」と答えた。焦った。さっきの電話は、国際電話だったのだ。 いいと答えてしまったのだから行くしかない。呼び出した以上は、航空券代は、後で払ってくれるだろう。すぐにシカゴ行きの便を手配した。もう週末近かったと思う。アメリカなんか行きたくないなぁと思っていた。アジアとかアフリカなら喜んで飛んで行くが、今ひとつ気乗りしなかった。それにアメリカは、初めてなのだ。 シカゴのホテルにチェエクインしたのは日曜日。晩飯を食べにコーヒーショプへ降りて行くと、知人が居た。「えっ。どうして?」と聞くと、「Aさんは来ないよ。コロラドスプリングスで待ってると言ってたけど」。Aさんは、私に電話をしてきた先輩のことだ。 そこで、初めて何の仕事かを知った。アメリカの会社のコンサルティングだと言う。そこで出会った知人と2人で、明日、その会社へ行くのだそうだ。ちょっと待って欲しい。私は、コンサルタントの仕事などしたことがない。それに英語は駄目だ。わめいた。「いいから、いいから、大丈夫。それじゃ朝8時」。それで終わりだ。 また、いつもと同じパターンだ。飛んで火に入る夏の虫。わけがわからない所へ、飛び込んでしまったようだ。 朝8時、ホテルへ迎えが来た。役員一同から、従業員代表が20数人集まっている会議室に通された。それから3日間ほど、ほとんど缶詰状態。もう、何も考えられなかった。これが最初のアメリカ体験である。 アメリカへ来たのは初めてだと知って、シカゴ最後の日に、社長がアメリカを案内しようと言ってくれた。車は、まっすぐ都心へ向かった。もう夜である。シアーズタワーに着くと、展望台に登った。眼下には、どこまでも光の帯が続いていた。社長が言った。「これがアメリカだよ」。翌朝、コロラドに向かった。 恐る恐る出かけた最初のアメリカではあったが、その翌年には、パロアルトのコンピュータメーカーで、役員相手に話していた。可愛いマークのステッカーや、ボールペンに大喜びしながら。そのメーカのコピーマシーンを、秋葉原で買って、拡張ボックスまでつけて、あらゆるボードを持っていた。しかし、本物を持っていなくて、コンサルタントなんて、ずうずうしいにも程がある(帰ってから、eの付く本物を買ったから許して欲しい)。 ここは開発中だから見せられないんだよと言いながら、にっこり笑って案内してくれた部屋には、布がかぶさった小さなマシーンが置いてあった。帰国して、しばらくしたら、そのパソコンが送られてきた。今までのパソコンとは、まったく違って、OSが見えなくなっていたのと、どんどんリンクできるカードのソフトに、本当に感動した。 でも、英語コンプレックスが直ったわけではない。どこでも生きていけそうには思えてきた。
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