ネットワークでは、ハンドル名が当たり前になっている。ハンドル名から、実名を想像するのは難しい。これは、ケンちゃんと呼ばれていた若者のお話し。 ケンちゃんは、「ケーキ屋ケンちゃん」というTV番組の主人公に似ていたらしいが、残念ながら、ケンちゃんはテレビを持っていなかった。かの有名な「洗濯屋ケンちゃん」から付いた名前だという説もあるが、本当のところはわからない。 ただ、ケンちゃんは、ほとんど家へ帰らなかったのは事実のようだ。当時としては、非常に珍しい留守番電話を持っていた。留守番電話なんてものは、企業でも見かけなかった頃だ。オープンリールのテープが2本ついている大きな箱である。このおかげで、家へ帰らなくても、留守電をチェックしに寄るだけで、アリバイは確保できていた。どこから電話連絡しようが、相手には、どこからかけているか分からない。 しかし実は、家に帰っていないことを知っていた人物が一人居た。ケンちゃんが勤めていた会社の経理部長である。アパートが、彼の帰り道にあったのが問題だった。いつも電気が消えているだけならまだしも、彼の出勤時間に、駐車場に車がないのを見破られていた。ケンちゃんの車の走行距離から、どの方面に居たかまで見破っていたようだ。・・・ついでながら、旧家の出身でお金持ちの経理部長氏は「うちの家系は、みな50歳までしか生きていない。だから、それまで思い切り贅沢をする」と宣言していた。とっくに50歳を過ぎているがピンピンしている(まだまだ遊びほうけるつもりだろう)。 ケンちゃんは、車のタイヤをワイドにして車高を下げて排気管の音を良くして、首都高をサーキットと思っていたようなところがある。しかし、なんとか族とか称して、仲間を集めて走り回るのは大嫌い、どうせむちゃをやるなら一人でやれと思っていた。他人に迷惑をかけてはいけないと思っていた(事故れば、大迷惑だが気づいていない)。 軽井沢までどれだけ短時間で着けるかとかを、競争していた。道が混んでいる時には、反対車線を、ヘッドライトをつけてつっこんで行く(これって、すげぇ~他人に迷惑を振りまく行為だ・・・が気づいていない)。 くだんの元経理部長は、今でも、似たような車のとばし方をしている。たまに大事故をやらかすが、腕に自信のある若者でも、街道レースではかなわないようだ。 ケンちゃんは、バイクで車と正面衝突したことがある。救急車で運ばれる途中で気がついた。何故、自分がそこに居るのかがわからない。何が起こったのか覚えていない。その日の朝のことは覚えている。病院へ担ぎ込まれて手当てを受けて、しばら~く時間がたってから、次第に記憶が戻ってくる。それも、過去の時点から少しずつ現在に向けて、じわじわと記憶が復旧してくる。記憶というのは、面白いものだと、ケンちゃんは気づいた。 幸いにして、腕を折っただけですんだ。友達が見舞いに来た。そして、お見舞いに連れて行かれたのは、当時は某国の国名で呼ばれていた浴場である。片腕を包帯で下げて、身体を洗うのが難しかった時に、お風呂に入れてもらえたのだから、嬉しいお見舞いである。 その後、ケンちゃんは、イエ付きカー付きババ抜きという流行語に従って結婚した。車までもらえるというので、ケンちゃんは、オープンカーを買ってもらおうとしたらしい。そしたら、車屋さんから、「オープンカーは、中年を過ぎてから乗るものです。若いうちに乗るものじゃない。」と説教をされて諦めたそうだ。それなら、中年になったらオープンカーに乗ってやろうと堅く心に決めていたようで、中年になって、その通りにした。 車付きの奥さんは(あれ?)、車が好きだったようで、ケンちゃんが海外出張中に、「ル・マン!」とか叫んでパリへ遊びに行ってしまった。日本の「ル・マン」出場チームの買い出し役とかやっていたらしいが、食事はポルシェチームとかで食べていたそうだ。昔から、向こうのレーシングチームは、コックさんを連れて会場へ来ていたらしい。ケンちゃんの、独身時代のへそくりは、この時に使われてしまった。その時、日本のレーシングチームを指揮していた男は、その後、若い奥さんと再婚し、ケンちゃんに会うたびに「お前は、ま~だ失敗を続けているのかぁ」と言っているとか・・・。 ケンちゃんは、ケンちゃんと呼ばれていた頃を知っている人が、ほとんど居なくなって、ほっとしているらしい。しかし先日のこと、あるオバサンが「ケンちゃん、元気!」と訪ねてきて、びっくりしたようだ。 その当時のケンちゃんの友達で、皆の服を洗濯してアルバイト代を稼いでいた学生が居た。彼は「洗濯屋ぁ!」(ケンちゃんではない)と呼ばれていた。今じゃ、日本トップの銀行の、超重要ポストに居るのだが、たまたま多くの部下を従えて飲みに来ていた。オバサンは、そんなことにお構いなく「あっらまぁ~、洗濯屋じゃないの!」と叫んだ。
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