1992年の春。私は会社の社長を解任された。会社を立ちあげた自負はあったが経営能力が足りなかった。持ち株比率は、わずかであった。バブル経済が崩壊しつつあった。ふくらみきった生活から突然ぷ~太郎生活になったわけだ。解任手続きが終わるまで、数万円の名義料はくれると言う。しかし、住民税や社会保険料を差し引くと、当然マイナスになる。給料明細が、実は請求書であるという状況に直面した人は少ないのではなかろうか。住んでいたマンションで殺人事件が起きて、カミさんは精神的におかしくなりはじめていた。自分の健康状態も最悪であった。しばしば起きる幻聴に悩まされていた。まずい時は、すべてがまずくなる。そんなものだ。 なんとか仕事をみつけなければならない。以前からの財形貯蓄を取り崩せば2ヶ月は問題ない。その先の見通しがまるでなかった。家に居ても、気が滅入ってくる。神谷町にあったSさんの事務所にころがりこんだ。居候である。丁度、向かいにDoCoMoがあったので、まずは携帯電話を買うことにした。この電話番号が事務所替りである。携帯電話を買って知り合いのオフィスで居候を始める。これが、ぷ~太郎生活を始めたオジサンの定型パターンである。 当時のSさんは、コンピュータ関係というよりも経営コンサルタントのような仕事をしていた。そこへ、Fさんというコンピュータ関係の人が来て、新しい企画を始めようとしていた。「これからはインターネットの時代ですよ」とFさんは話していた。「インターネットって何ですか」。私は何も知らなかった。Fさんの説明で、コンピュータを相互に接続するものらしいとはわかった。それまで金融関係の仕事をしていたので、コンピュータを接続してデータ交換をする方法は知っていた。銀行だけでなく証券会社や航空会社でも使われている。しかし、Fさんの説明によると、インターネットというのは、そういうものでもないらしい。大学のコンピュータが接続されているような仕組みらしい。そうなると、私には、どこが違うのかわからない。誰とでもデータが交換できるんですよと説明されても、「ふ~ん、電話線みたいなものかな」程度である。ニフティは、いつも使っていたけど、「そんなもんじゃないよ」と一蹴される。ニフティだって、家のパソコンとコンピュータを接続するではないか。 Fさんは、丁寧にインターネットについて説明してくれた。しかし、それが、どう世の中を変えるのかのイメージはわかなかった。Sさんは、郵政省から、その事業認可を取るために飛び回っていた。この事業を始めるには、相当な資金が要るらしい。そんな2人が、そのうち倉庫置き場のようなオフィスにコンピュータを運びこんで会社を始めることになる。 私はSさんのオフィスで、ソファにごろごろしながら、何をしようかなぁと考えていた。しょせん居候なので、鍵をもらったわけでない。誰も居ないと入れない。赤外線のセキュリティ装置というのは、動く熱源を検知するということを知っていた。非常に非常にゆっくりと移動すると、部屋内に差し込む太陽光線と同じになれる。試してみた。すぐに警備会社の人間がとんできた。もっと、ゆっくり移動しないと駄目だったのだ。 40を過ぎた人間に簡単に就職口があるわけではない。バブルの崩壊にともない、そんな人間は山のように居た。自分だって社長時代は、会社を立て直すために、何人もの社員を首にした。その番が自分に回ってきたわけだ。Sさんは、一緒にやろうよとか誘ってくれるのだが、なんかシンドそうな仕事よりも再び旅に出たくなっていた。インドネシアで会社をやらないかと言う友人の話しの方が面白かった。生活費にあてようと思っていた貯蓄を、その会社の設立に投資することにした。 インドネシアで事業をやろうとした会社は、まもなく行き詰まって、私はそこを離れることになった。今でも一人の友人が、骨を埋めるつもりで頑張ってはいる。 その後、FさんやSさんが始めた会社は、永田町で産声をあげた。山のような段ボール箱、部品状態のコンピュータが、ビルの外から見える。1階にあるオフィスはガラス張りで、丁度、地下鉄に向かう通り道にあたっていた。いつまでたっても雑然としたままのオフィスを見て、通り過ぎる人達が覗き込んでいたりした。しかも24時間、誰かが働いている。外から見たら働いているというよりも、遊んでいると見えただろう。それが日本最初の民間インターネットプロバイダーの始まりであった。今では、日本最大規模になり、いつのまにか大会社である。 その頃、アメリカにGO社という企業が生まれていた。GO社が開発したPenPointというOSは画期的なものであった。モーバイルコンピュータ時代の先駆けであった。私は、ジャカルタからサンフランシスコの、その会社へ向かうことになる。
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