オジサンのよたよた話し


たくさん買うと高くなる

前にも、ちょっと書きかけた物の値段のお話しです。

物の値段は、その人が、その物を、どの程度欲しがっているかによって決まる。それが、当たり前の話しだ。しかし、私たちは、いつのまにか、その当たり前のことを忘れてしまって、物には決められた値段があるかのような錯覚に陥ってしまっていることが多い。だから、土地の値段が下がると、びっくりするし、相手によって値段が変る社会に怒り出す人が居たりする。さらに、大量生産に慣れていると、たくさん買えば、値引きしてくれるのが当然だと思っていたりする。

ニューギニアでの話し。
ロクロを使わないで、丸い壷を作る村へ出かけた時のことである。縄の先に石を縛り付けて、ある程度まで手作りで壷の形に仕上がった粘土の塊の内側へたらす。この縄を、振り子のように揺らしながら、壷の外壁を内側から膨らませて行く。次第に、粘土は丸みを帯びて、球形の壷が出来上がる。壷の口は小さい。ロクロを使わずに、こんなものが作れるのかと思うほど、滑らかな仕上がりになる。
私は、21個の素焼きの壷を買って、トラックに積み込んだ。それを船で運んだのだが、日本での帰港地が大阪港であった。だから、友達に、東京から車で迎えに来てもらった。その友達は、大手有名電機メーカーに勤務していたが、休暇を取って迎えに来てくれた。私は、途中で知り合った彼女と一緒に船を降りた。そして、迎えに来た友人に運転させて、彼女の実家経由で東京へ帰った。まもなく、その友人は、サラリーマン生活を辞めてしまって、私と同じような生活を始めてしまった。多少、悪い影響を与えてしまったかなとは思っている。でも、いずれ辞めるなら、早くて良かったではないか。
話しを元に戻す。壷を、21個も買えば、1個の値段は安くなって当然だと思う。しかし、違っていた。これは手作りである。1日に作れる個数は限られている。たくさん売ってしまうと、他の人が買いに来た時に困る。だから、「たくさん買うと値段は高くなる」というわけだ。初めて聞いた時には、本当にびっくりしたが、すご~く納得してしまった。

ジャカルタでは、定価販売の店が増える前は、すべての値段は交渉で決まった。ある日、煙草を1カートン買おうと思った。街を歩けば、子供の煙草売りが近寄って来る。値段の交渉が始まった。彼は、しかめっ面をしながら、これ以上は、どうしてもまけられないと言う。私は、普段の交渉よりも、安い値段まで下がったので、そこそこ満足していた。楽しみながら、もう、ひと押ししてみようとねばっていたのだ。しかし、その子は、これ以上安くすると原価割れになると言って、頑として譲らない。日本円に換算すれば5円程度を、まけろ、まけないと、道端に座り込んで続けていた。今日は、このあたりで手を打つかと思って、支払った。
そのとたん、しかめっ面を続けていたその子供が、満面の笑みに変った。まわりで、同じように大人びた顔をして交渉の成り行きを見守っていた仲間達が、全員で飛び上がって喜んでいる。彼らが勝ったのだ。「旦那、本当は、ここまではまけられたんだよ」と、大喜びで子供達が話してくれる(このあたりが無邪気だ)。そんな子供達が大好きだった。今でも、そんな時の、子供達の笑顔が忘れられない。
逆の場合もある。売り手が、どうしても今、お金が欲しいと切実に願っている場合だ。そんな時は、値段は、どんどん下がって行く。足元を見ているようではあるが、それが物の値段だ。売れ残りのバラ売りの煙草を抱えて家路につく時の子供達は、まとめて1箱で買うより安い値段で、1本の煙草を売ってくれる。
定価販売が原則のはずのデパートでも、一応、交渉してみると、何がしかの値引きはあった。最近は、皆が豊かになって、あんまり相手をしてくれなくなったが、買い物の楽しさだ。

お金を持っている時と、持ってない時では、こちらの顔も違うようだ。持っている時には、自分に余裕があるためか、交渉しても値段は、なかなか下がらない。しかし、本当に、お金を持っていない時は、確実に値段が下がる。お互い、人間同士だ。
乞食に、お金を恵んでもらった時も何度かある。そんなに貧乏だったわけではない。電話ボックスで、電話をかけるための小銭を探していた。しかし、ポケットのどこにも、電話代に相当するコインがない。どこかで買い物をして、両替したいのだが、店もみつからない。本当に、困った顔をしていたのだろう。道路で、立ち上がれない障害者の格好をして、目が見えないような素振りで、通りすがりの人に、恵みを乞うていた乞食が、すっくり立ち上がって、すたすたとこちらへ歩いて来た。そして、コインを私に手渡すと、再び、すたすたと行ってしまった。ありがとうと言うのが精一杯で、代わりに、お札をあげる余裕すらない。彼にしてみれば、芝居をしていた同じ場所では商売が続けられないから、別の場所に移動したのであろうが、本当に感謝した。その時の私にとって、その1枚のコインは、数百倍もの値打ちがあった。

通貨の切り下げも、物の値段がわからなくなる時だ。ある朝、起きると、通貨の切り下げが発表されていた。通貨の切り下げは、絶対に、あらかじめ漏れることはない(一部の人間は知っていて大儲けするのかも知れないが)。たまたま、私は、現地通貨の手持ちが少なかった。すぐに、ドル札を持ってデパートに向かった。デパートの開店前に、店員が総出で、値札を張り替えているのが、ガラス越しに見える。
物価が同じであれば、通貨を切り下げると、外国から見た時には、国内商品の値段が下がることになる。そして、国際競争力が増す。しかし、物を輸入しようとすると、通貨が下がった分だけ、外国商品の値段が高くなる。デパートのように、外国商品を多く扱っている店では、今の値段で売ったのでは、次の輸入が出来なくなってしまう。そのため、通貨の切り下げ分だけ、値段を上げようと、値札を付け替えるわけだ。まあ、その結果、インフレになるのだが(但し、国内商品だけ利用する人々には、生活が楽になる)。
値札の付け替えが起きるのは予想できた。私が狙ったのは、付け替えを忘れた商品を探すことなのだ。暇な外人にとって、商品棚の中から、古い値札のままの外国製品を探し出すのは、ドキドキする楽しさがある。お酒を飲む人達は、瓶を1本、1本ひっぱりだして、古い値札のものを探し出す。みつければ、通貨切り下げ分だけの得になる。私の知り合いなどは、何軒も回って、山のように酒を買い込み喜んでいた。

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