某中央官庁が、日本の週休2日制を推進し、レジャー産業を育成しようと、財団を設立することになった。当時は、どこの会社も土曜日は半ドンであった。週休2日制など誰も考えなかった。財団の設立に尽力したのは、辣腕で評判だった当時の事務次官である。型破りの彼は、企業の休みを増やすことが、GNPを押し上げると説明した。経済成長が求められる時代であった。当時は、休みを増やすのが産業のためだなどという話しを、ほとんどの人が信じなかった。しかし、彼は正しかったし、先見性は抜群であった。 私も、休日が増えると、どうなるかを計算した一人であるが、計算結果は、自分でも信じられないものであった。休日が増えると、消費が拡大して、GNPを見事に押し上げるのだ。従来は、労働時間を増やしたり、生産効率をあげて、物をたくさん作ることが、経済発展を促すと考えられていた。休みを増やして、消費を拡大させようなどと考える人は居なかったのだ。それまでと、まったく異なる論理が、そこにはあった。 そんな世界に首をつっこむことになったきっかけは、「帝国ホテル」という甘い言葉であった。帝国ホテルへ足を踏み入れようなんて、若くて貧乏な人間は、想像もしない。着る物だって、Tシャツとサファリジャケットが1枚。それに、冬用に、中に着込むセータを1枚しか持っていないような若者だ。洗濯をすると、それが乾くまで、シャツ1枚でウロウロしているような生活。男3人で、マンションを借りていた。入り口に、大きなドラム缶を置いて、訪ねて来る友人には、何がしかのカンパを強要し、それを分け合っていた。大学院に籍を置いていたから、奨学金がもらえた。これを受け取る時だけは、大学へ行っていた。どうやって卒業できたかは、またの機会に書こう。 奨学金というのは返すものだと知ったのは、ずっと後のこと。本人も、保証人も、住所不定になっていたのだが、結婚の仲人を教授に頼んだ時に住所がばれて、追徴金付きで、すごい金額の請求書が送られてきた。もっとも、卒業式にも出なかったから(代表で名前を呼ばれたらしいのだが)、卒業証書も受け取っていなかった。それを受け取ったのは、もっと、ずっとずっと後で、仕事で必要に迫られた時であった。話しがずれてしまった。 潜水艦を作ろうとか、新しい遊びの機器を考えている会社があるという評判は、それなりに広がって行った。その会社の社長が、それなりの人物であった(変わり者という人もいるが)こともあって、大手新聞社から、新しいレジャー機器の調査などが来るようになっていた。財団設立の動きに、まさにマッチしていたのだ。もっとも、時代にマッチしていても、まるで儲からない会社もあるという典型ではあったが。 財団設立の準備室が帝国ホテルに置かれることになった。そこに、電話番が居るというわけだ。すぐに返事をした。帝国ホテル住まいが出来る。こんな格好いい話しはないだろう。彼女とデイトするにしたって、帝国ホテルで待ち合わせが出来るのだ。どんな貧乏な時でも、車だけは手放したことがなかったから、「車で帝国ホテルに乗り付けて仕事をする」という、このフレーズだけでも、十分に酔えるものだった。 しかし、現実は、それほど甘くはなかった。当時は、丁度、貧乏な時期にあたっていた。とても豊かで、浪費に明け暮れる時期と、貧乏の、どん底というような生活が、交替でやってくる。豊かな時に、多少でも貯金をしておけばいいのだろうが、札束のベットに埋もれた時だって、使うことしか考えもしなかったのだ。いつも、物を買うというようなことには、お金を使ったことがないから、何も残りはしない。思い出だけは、たっぷり残るから、よけに惨めなのかも知れない。 帝国ホテルのあるあたりは、都心も都心。食事をするのが、一苦労なのだ。カウンタに座って、「おばちゃん、しょうが焼き定食一つ」なんて言える店がない。あちこち歩き回って、今日は何を食べようかと考えていたのが印象に残っている。 こうして、新しい職場が始まった。し~んと静まり返ったホテルで、電話番をしていた。パーティがあると、入り口で頭を下げて、方向を示す役だ。想像に描いたほど格好良くはないが、帝国ホテルに住めたのだ。まもなく、事務所は、新しいビルに移転した。しかし、そこも都心の一等地。六本木の屋上のプレハブからは、出世したわけだ。
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